Hさんを追悼する

 11月末、大変お世話になっていたHさんが、往生された。
門徒であるHさんは、今では懐かしくなったリヤカーを自転車で引き、寺の生ごみや危険物を無償で片付けてくれていた。地域のあちこちの家を回りボール紙等を片付けてくれた。地域で、なくてはならない人であった。あまり好きな言葉ではないが、知的障害を持っていたことで、昼間授産施設に通い、朝と夜、片付け作業をしていたわけだから、とにかく働き者であったと言える。Hさんが、入院中も大変お世話になった前施設長のOさんは、以前、「Hさんが、私達の目標です。」と言われたことがある。障害を持つ人々が地域でどのように自立できるかは、関わっているものの大きな課題といえる。

Hさんの地域の人々は、時にはおかずを差し入れたり、日用品を持っていったり、言葉をかけてあげたりと、Hさんをよく理解し支えてくれた。Hさん自身も朝夕、生ごみや危険物、ボール紙等をボランティアで集めて、地域を支えた。一方向でないことに「目標である」ことの所以(ゆえん)がある。

 通夜は、施設の方々が中心に集まった。霊安室であったので、20人ほどのスペースが人でいっぱいになった。ほとんどの職員が涙を流し、お別れした。葬儀は拙寺で行われたが、予想を超える70~80人の方々が参列された。ある方が、新聞にでも載せていたら、この数では済まないよといっていたことが、頭に残る。Hさんの明るい人柄と地域への貢献が、結果として現れたものと思う。
 Hさんには、「ぼうぼうやん」という通称があった。葬儀後にそのことが話題になった。Oさんが、「ぼうや、ぼうや」ということから「ぼうぼうやん」に変化したという説明をしてくれたが、諸説あるようで、はっきりとしたことは分からない。知的障害を持っていたHさんであったが、73年を地域に生き、地域を支えた人生に「あっぱれ」と讃えたい。
 ありがとう、Hさん。
                                合掌
 
 追;Hさんのお棺には、自前でそろえ、興がのると身に着けて踊った三度笠等が入れられた。仏様の世界で今頃は、陽気に踊っていることだろう。